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伊集院静 番組中に激怒! 番組中断!

12日に放送された「ゴロウ・デラックスSP」(TBS系)では、ゲストの作家・伊集院静が途中で激怒し番組が中断、これに関連するツイッターのタイムラインが騒然となった。

小島慶子稲垣吾郎が司会で、伊集院氏行きつけの鮨屋でトークするという内容。

伊集院静は、
「女は鮨屋に入るな」
「グリーン車で騒ぐ子供を注意しないのはおかしい。叩いてやったよ」
と語るなど辛口トークを冒頭から連発。

その後、小島が伊集院氏に冗談っぽく、
「うるさい」
と言った途端、伊集院静が突然、
「やめだやめだ」伊集院氏は店の外に出てしまった。
年下の小島が、伊集院氏に「うるさい」と言ったことが原因のようだ。
小島慶子と稲垣吾郎はあっけにとられるばかり。

ツイッターやネット掲示板には、
「えっ!?どういうこと?」
「小島もキレかかってるw」
「キレて番組収録を辞めるなんて器が小さい」
「演出でないのなら器が小さい」
など、伊集院氏に対する批判も多かった。

一方、
「だいたい目上の人にタメ口してた小島が悪いよ」
「小島慶子の態度気に入らないな~。肘ついて人の話を聞くか? 上から目線で失礼な事言うか?」
など、小島慶子に対する批判もあった。

その他にも、「どちらかというと視聴者をコントロールして感のある編集が気に障る」
と、伊集院の“ブチギレ”も演出とする意見も寄せられた。

どっちもどっちとも思えるが…。また、演出なら当然視聴者はよく思わないだろう。

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「伊集院静」
  
伊集院 静(いじゅういん しずか、1950年2月9日 - )は、日本の作家、作詞家。
伊集院 静は作家としてのペンネームである。作詞家としての筆名は伊達 歩(だて あゆみ)。
本名(戸籍名・日本名)は、西山 忠来(にしやま ただき)。日本に帰化前の氏名(旧名・出生名・韓国名)は、チョ・チュンレ(朝鮮語:조 충래、漢字表記:趙 忠來)。男性。

山口県防府市出身の韓国系日本人2世である。のち日本に帰化したことから、氏名を西山忠来(にしやま ただき)に変えた。
山口県立防府高等学校を経て、立教大学文学部日本文学科を卒業した。当初、立教大学ではなく美術大学に進学するつもりでいたが、当時義兄が巨人の野球選手だった影響で高校の夏休みを利用して東京に行ったおり、長嶋茂雄本人から「野球をするのなら立教に行きなさい」と言われた。その長嶋の一言で立教大学に進学を決めた。

ディレクターとして

広告代理店勤務を経てCMディレクターになる。広告代理店時代に最初の夫人と結婚、二児をもうけるが、1980年に離婚。1980年の松原みきからコンサートツアーの演出を始め、以後松任谷由実、松田聖子、薬師丸ひろ子、和田アキ子らのツアーのほかファッションショーも手がける。

作家として

1981年、『小説現代』に『皐月』を発表し作家デビュー。代表作に『機関車先生』山口県防府市を舞台とした自伝性の強い『海峡』三部作などがある。1984年8月27日にかつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールで一緒に仕事をした女優の夏目雅子と7年の交際の後再婚したが、夏目は1985年9月11日に27歳の若さで急性骨髄性白血病で死去した。

伊達歩(だて あゆみ)の名で作詞家としても活躍。近藤真彦に提供した『愚か者』で、1987年に第29回日本レコード大賞を受賞した。その他『ギンギラギンにさりげなく』などのヒット曲がある。1992年7月15日、『受け月』で直木賞を受賞。同年8月7日に現在の夫人女優篠ひろ子と再婚。

1993年、『乳房』が映画化、1997年、『機関車先生』がアニメ映画化し声優として参加している。更に2004年には実写映画化された。その他、テレビ化されたのは「夕空晴れて」「海峡」「あづま橋(橋の雨)」など。 また、2005年「ツキコの月」が帝国劇場、中日劇場にて舞台化された。(Wikipediaより)

近年の著書

      

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「小島慶子」

オーストラリア・西オーストラリア州パース市で出生したのち、商社マンである父親の仕事の都合で、7歳のころはシンガポールに、8-9歳のころは中国返還前の香港と日本国外で暮らす。日本帰国後は東京都日野市百草に住んでいた。日野市立三沢台小学校、学習院女子中等科・高等科を経て学習院大学法学部政治学科卒業後TBS入社。

身長は172cmと女性アナウンサーとしては高いことから、後輩の小倉弘子とともに「TBSのツインタワー」といわれることがあった。ちなみに、小川知子、青木裕子両アナウンサーやTBSニュースバードの黒木奈々キャスターも身長170cm以上の長身であるため、当時の採用決定者に長身好きがいたのではと小川知子は勘ぐっている。

新人のころ、写真週刊誌『FLASH』(光文社刊、1995年10月10日号)のインタビューで「若いうちはバラエティーに、将来は報道を担当したい」と語っていた。バラエティーのアシスタントとしてうまくはまらず苦戦。入社3年目(1997年11月)のときに番組宣伝がきっかけで『世界ふしぎ発見!』のミステリーハンターに。メキシコ編では民家のトイレをはずみで壊したとされ、弁償した。その後、トイレは壊れておらず、修理代を騙し取られていたことがわかった。

入社4年目(1998年)の秋、ラジオ番組『BATTLE TALK RADIO アクセス』の初代ナビゲーターになった。『アクセス』では、聴取者やトークパーソナリティーである著名人が繰り広げるさまざまな議論に、単なる聞き役だけでなく時には口を挟んで自分の考えを述べるなど、「水を得た魚」のように活躍した。この番組のナビゲーターを務めた功績を称えられ、1999年に第36回ギャラクシー賞DJパーソナリティー部門賞を受賞している。最初の産休入りのために降板するまで、4年3ヶ月もの間いわばTBSラジオの夜の声であった。同時期、テレビでは『回復!スパスパ人間学』に出演、森本毅郎や爆笑問題らを相手に奮闘した。

最初の産休が明けた後、『ニュースフロント』、『時事放談』と主に報道番組を担当する。2度目の産休が明けた後の2006年10月に、ラジオのレギュラー番組『久米宏 ラジオなんですけど』が始まる。かつて『アクセス』担当時に、その後の生放送番組『深夜の馬鹿力』での企画を何度も手伝ってもらった伊集院光は、「彼女がラジオに戻ってきたことがうれしい」との趣旨の発言をした。4年近くのブランクがあったが、久米宏とのテンポのいい掛け合いに対するファンも多かった。

2006年10月に開始し2年間続いた『ママアナのデジ@缶』では、世代がまったく違う後輩アナウンサー・山内あゆ、青木裕子、出水麻衣と共演していた。番組での様子が『週刊プレイボーイ』(2008年2月25日号)での特集記事で取り上げられ、後輩に弱みを見せることでコミュニケーションを円滑にしている、と評された。

2009年3月末より『小島慶子 キラ☆キラ』のメインパーソナリティーに就く。以前から『アクセス』内でくだけたトークを披露したり、『深夜の馬鹿力』で嘘ニュースを読むなど、女性アナウンサーでは特異なキャラクターを見せていたが、『キラ☆キラ』ではそれを全開にしたことで大きな話題となり、『QuickJapan』(vol.86,vol.90)で特集が組まれるなどの反響を呼んでいる。『QuickJapan』誌(vol.86)の取材で、「キラ☆キラ」の村沢青子プロデューサーは、「小島慶子は生活のディティールに面白いことを見つけたり、リスナーの気持ちを汲み取る力に抜群に長けていることは知ってた。……ただここまで彼女のパーソナリティが強く出るとは思いませんでした。」と語っている。

2010年4月3日にTBSを退社するとの報道が流れる。10年前から独立を意識しており、幅広い分野で自らの可能性を追いたいと周囲に述べているという。4月28日の自身の番組内でこの報道を認めて、6月30日をもって退社する旨を告げた。退社後はキャスト・プラス所属の「ラジオパーソナリティ」として活動する(フリーアナウンサーとしてではない)。なお、キャスト・プラスもTBSの関連会社である。

Twitterなど一部のネットコミュニティではオジキ(ラジオ番組『小島慶子 キラ☆キラ』水曜日担当宇多丸が命名)と呼ばれている。(Wikipediaより)

    






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